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大津皇子と大伯皇女について (筆者私見)

大津皇子死後の大伯皇女

 展示室のパネルによると、近年の発掘の成果から飛鳥に戻ってからの大伯皇女は比較的恵まれた暮らしをしていたのではないか、と考えられているようです。表向きは「父天武天皇の追悼」とはいえ、このような立派な寺院を建てることが許されたという事だけを考えても、決して粗末な扱いを受けていなかったと考える方が自然でしょう。
 大津皇子が二上山へ埋葬された、と記録されていることについても、「大津は謀反人であるから、その様なことが許されたとは考えられない。これは後世の造作である。」という意見もあるようです。また大津を偲ぶ「反草壁派」の反発を抑え込むための方策ではないかとか、祟りを畏れたとかいう解釈もあるようです。しかし夏見廃寺の造営と併せて考えると、やはり何らかの理由で大津・大伯の姉弟が持統女帝より「許された」と考えた方が自然ではないかと思います。
 その点について、私なりにきわめて大胆かつ無謀な推測をしてみました。以下の推測は夏見廃寺訪問直後における私の完全な私見です。私は関連する史実や当時の天皇家における慣習について正確な知識を持たず、また前後の時代に起こった事象についての考察も不十分ですから、決してこれが真相だと確信している訳ではありません。

大津皇子刑死事件とは

天武天皇の体調がすぐれず、後継者問題が現実のものとなった時点で、皇后鵜野(のちの持統女帝)は強硬に自分の実子である草壁を推し、彼の立太子を実現したようです。私にはこの草壁立太子はほとんど鵜野の「横車」で、天武帝としてはかなり不本意ながら承服したものだったのではないかと思えています。

そして日本書紀の記述するところによると、朱鳥(あかみとり)元年(=西暦686年)、9月9日天武天皇が崩御し、鵜野は即位することなく称制(天皇空位の代理)を敷きます。それから1月も経たない10月2日大津皇子の謀叛が発覚したとして「皇子に欺かれた」官吏・舎人ら30余名とともに逮捕され、翌3日に皇子は死を賜ります。そしてその月の29日に、「詔して従者のうち1名を伊豆に配流する他はみな赦免し、ほかに謀叛に与した新羅僧1名を飛騨に移した」という記述があります。

女帝は皇位の「世代交代」の時間稼ぎだった

持統以前に即位した女帝は推古、皇極の2人(斉明は皇極が再度即位したもの)。当時はまだ律令制による統治機構が完成しておらず、天皇の地位は形式的なものではなく、リーダーとしての統率力が求められた時代だったようです。したがって「長子」が無条件に皇位継承者になれると言う訳ではありません。皇子はある程度長じてその実力を示し、朝廷内に十分な支持者を得て初めて即位できたと考えられます。天皇が崩御した時に即位資格を有する皇子がいない場合に、皇后が即位して「時間稼ぎをする」というのが女帝誕生の事情であったという歴史家がありますが、私はこの考えを支持します。

そしてこの「実力を示し支持者を得る」というプロセスにおいては武力の行使も必要だったようです。中大兄皇子(葛城皇子)は乙巳の変(いっしのへん=大化の改新のきっかけとなった、宮殿内での入鹿暗殺事件)によって蘇我入鹿を討つことで皇位を自分の手中に収めました。またそれに先立つ「有馬皇子の変」も、「中大兄と通じた蘇我赤兄が一方的仕組んだ陰謀である」と言う説が広く信じられ、その前の様々な出来事と合わせ「悲劇の皇子」のイメージが定着しています。しかし、そうではなく実際に有馬が皇位を獲得すべく画策していたからこそ、その様な事件に発展した、という説もあります。

その様な背景から、私は持統の称制も同様に草壁への皇位継承を確実にするための手段ではなかったかと考えました。

大津皇子刑死事件の意味するもの

実力だけから言えば、天武の後継者としては、草壁より大津あるいは高市が妥当というのが衆目の一致するところでしょう。高市は「卑母」(生母が皇女でない)ということで、血統重視派からは抵抗も強いでしょうが、壬申の乱の時の働きを考えれば彼に皇位継承の可能性がなかったとは思いません。

前例は絶対ではありません。「吉野の誓盟」に加わった6名の皇子(草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基)は全て皇位継承の資格が有り、資格があるがゆえに誓盟に加えられたと考えます。天武の崩御後、既に立太子していた草壁がなぜすぐに即位しないで、天武の皇后鵜野が称制を敷いたのか?それは草壁の皇位継承が朝廷周辺で十分な認知を得ていなかったからではないかと考えます。

ここまで読まれて、私がどのように考えているか気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。私の限られた知識に想像力をはたらかせて見えてきたものは「大津の謀叛は実際にあった可能性が高い」ということです。それも計画段階で発覚していて、「泳がされて」何らかの実行に移したところを捕らえられた、と考えています。拘束して翌日に処刑、しかも本人の他ほとんど全員赦免というあたりの手回しの良さにも感心します。

大津死後のこと

大津の死から2年半後の689年4月に皇太子、草壁皇子が死去します。享年27歳、日本書紀は死の事実だけを記しています。書紀の書かれた当時、皇太子の死のいきさつを知るものが居なかったとは思われないのに、その若すぎる死の理由も状況も一切書かれていない、というのも不思議な話です。

696年、持統帝52歳で孫の軽王(草壁の遺児)に譲位します。文武天皇、14歳での即位です。この頃には律令国家の統治体制が整い、藤原史(不比等)のような実力のある廷臣も現れて推古帝の時代の様に天皇のリーダーシップが求められなくなり、血統のみで後継者を決めることが出来る時代になっていたと考えられます。また武力に依らない生前譲位の先例を作ったことも注目されます。

持統女帝退位後のこと

ここまでの考察も歴史をきちんと勉強していない者が、何冊かの一般書で仕入れた知識をベースに自己流の推測をはたらかせて書いたものです。したがってこれが真実であると主張できるものではありませんが、推測はそれなりに理性的に進めており、極端な発想はしていないと思います。

それに対し、ここから先は全く自分の主観による想像です。27歳という若さでの草壁の死は、何らかの不自然死(はっきりいえば暗殺もしくはそれに類するもの)ではないかと思います。初老の期に達した持統帝は、その事件に強いショックをうけたものと想像されます。そしてそのショックの中で、自分のしてきたことの「業の深さ」を痛いほど感じていたのではなかろうか、と勝手に想像しています。その結果「贖罪」の意識をもって、大伯皇女を懇ろに処遇し、昌福寺を建立させ、また大津皇子を二上山に葬らせたのではないか、というのが私の仮説です。夏見廃寺の金堂建立が草壁死後5年経った頃、と推測されているというのもこの仮説と整合する様に思います。

もちろん、夫天武との共治体制の成果が着々と上がり始め、軽皇子への直系皇位継承も確実となったという安心感も働いたかも知れません。「謀叛人」であるはずの大津とその姉大伯をこのように厚遇したのは、持統自身の呵責の念と「抵抗勢力」に対する懐柔策という二面によるのでは、というのが現時点で私の根底にある考えです。

そしてもうひとつ忘れてはいけないことは、昌福寺が7世紀の終わりに建てられ10世紀末に火災で焼失するまで、実に300年近い間延々と営まれていたと言う事実です。しかもその間に寺域がおよそ2倍になり、塔堂が増築されています。おそらくは周辺の荘園領主の支援を受け続けていたのではないでしょうか。大津と大伯の生きた時代を直接知る人がいなくなった後も、この寺が維持されていたということは、やはりこの悲劇の姉弟の伝説が人々の間で永く語り継がれていた、と言うことかも知れません。

付記1:大伯と大津は誰に育てられたのか?

大田皇女は667年大伯・大津の姉弟が幼少の頃に死去しています。その後2人の皇子が誰に育てられたのか、について大きく2つの見方があるようです。ひとつは「天上の虹」でも採用されている「鵜野讃良皇女が自分の実子である草壁と一緒に養育した」というもので、これが通説だと思います。それに対してもうひとつは大田皇女の父、天智天皇のもとで(実際には侍女らの手で?)育てられた、という説もあるようです。

私の手元には、そのどちらが真実でであるか判断できるだけの材料はありません。また仮に後者であるとした場合、どの時期に天智帝の手元を離れたのか、ということも定かではありません。

これまた根拠無く直感で判断するなら、大田死後、すくなくともしばらくは天智天皇の手元で育てられたのではないかと思っています。そう考える理由は、たとえ自分の腹から産んだのではないとはいえ、幼少の頃から手元で育てた子であるなら、大津にあそこまでの仕打ちを出来なかったと思うからです。大海人出家から壬申の乱の頃、この姉弟がどこでどんな暮らしをしていたのか、その辺の情報がもう少しわかれば答えが出そうな気がします。

付記2:朱鳥(あかみとり)という元号の謎

日本書紀では645-650年の「大化」、650-654年の「白雉」以来暫く元号は使われていませんでした。天武天皇の末年、天武15年(西暦686年)の7月20日に「朱鳥」に改元とあります。「改」というからには前の元号があったのでしょうが、それについては何も記述がありません。そして「朱鳥」はこの年1年きりだった様です。なにか不自然な気がしてなりません。

はたしてこの年号の実態は何なのでしょう?古田武彦氏は「九州年号」からの借用説を主張されています。古田氏の「九州年号」説については異論も多いと聞きますが、突然現れた1年限りの元号について、他になにか説明できる見解はあるのでしょうか?ご存じの方がありましたら、ご教示頂ければ幸いです。


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