運動公園内の道路に設置された「歴史街道」統一様式の案内板と展示館前の石の「表札」。
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運動公園内の道路に設置された「歴史街道」統一様式の案内板と展示館前の石の「表札」。
展示館正面。建物の裏側左手が伽藍跡のある場所で、伽藍跡に行くには展示館右手の通路を進んで建物の裏側に回り込みます。
図は伽藍配置図を現地で入手したパンフレットを参照して描き起こしたものです。図の上方が北で、南に行くほど低くなる傾斜地に作られています。赤線で示したのが掘立柱塀の跡で初期の伽藍の範囲と思われます。(北側部分は塀の柱跡が見つかっていないようです。)当初は礼拝の対象である金堂と塔が先に作られたものと考えられています。塔の南には掘立柱建物跡があり、僧が生活した僧坊ではないかと推定されています。
黒枠が「築地塀」の跡で、後年伽藍が拡張された時の寺域と考えられます。南側は築地塀ではなく掘立柱の板塀です。地形の関係で西側が南に行くほど内側に入り込む逆台形をしています。また修業の場所であった講堂は通常北向きに造られるのですが、地形上の制約から西向きという特異な形態になっています。(須弥壇が西向きなのは、もしかしたら西方浄土思想と関連があるのかも知れません。)講堂の南側からも掘立柱建物2棟の跡が見つかり、日常土器が出土したことから僧坊跡と考えられます。
伽藍復原想像図と伽藍跡主要部の風景。写真は塔跡北東側より講堂方向を見たところで、遠方に講堂須弥壇跡が見えています。説明板類は大型タイルに描画され枠にはめて地面に埋め込まれています。
講堂跡です。コの字形の盛土が「須弥壇」とよばれるもので、この上に仏像を安置しました。この時代の多くの寺院では講堂は北向きに礼拝するように作られますが、夏見廃寺では地形上の制約から西向きに礼拝する様な配置になっています。