三重県の東端中央部、奈良県に接する名張市にある寺院跡。戦後すぐの昭和21(1946)年と、近年(1984年〜)の発掘調査により、建立は7世紀末で10世紀後半に火災で焼失して廃絶した、という事が判明しました。大和薬師寺縁起(1015年)に「神亀2(725)年、大来(大伯)皇女が父・天武天皇を偲んで伊賀国名張郡夏身に昌福寺建立」という記述があり、その寺であることがほぼ確実視されているようです。国史跡(1990年指定)。
三重県の東端中央部、奈良県に接する名張市にある寺院跡。戦後すぐの昭和21(1946)年と、近年(1984年〜)の発掘調査により、建立は7世紀末で10世紀後半に火災で焼失して廃絶した、という事が判明しました。大和薬師寺縁起(1015年)に「神亀2(725)年、大来(大伯)皇女が父・天武天皇を偲んで伊賀国名張郡夏身に昌福寺建立」という記述があり、その寺であることがほぼ確実視されているようです。国史跡(1990年指定)。
大海人皇子(のちの天武天皇)は出家して奈良県吉野の山中に籠っていましたが、672年壬申の歳に密かに挙兵し、伊勢、美濃を経て当時都のあった大津(滋賀県)を東側から攻めます。その途上、に次の様なことがあったと日本書紀 巻第二十八に記されています。
[大意抜粋]
六月二四日、大野(現在の室生寺付近)で日が暮れた。夜半に隠(なばり)郡(=名張郡)につき、駅屋(うまや)を焼いた。村中によびかけ、「東国に向かう(天武)天皇に従う者はいないか」と呼びかけるが1人も出て来なかった。横川(現・名張川と推定)に着こうとする頃黒雲が現れ天を覆った。天皇はこれを怪しみ燭を点し竹をとって占って、「天下が二分されるしるしだ。しかし最後に自分が天下を取るだろう」と言った。
伊勢国の豪族の支援もあって、大津での大友皇子(弘文天皇)軍との戦いに勝利した大海人は、伊勢経由で飛鳥を目指し9月11日に名張に宿しています。
先に述べた様に表向きの名目は「父、天武天皇の菩提を弔うため」です。しかし万葉集に残された大伯皇女作とされる6首は全て大津皇子に関する物で、父天武を偲ぶ歌は一つもありません。そのうちの一首は、大津皇子が謀反の疑いで捕らえられる直前に禁を犯して伊勢斎宮をたずね姉と密会した時の作、とされています。そのようなわけで、大伯皇女がこの寺を建てた本心は、不遇の死を遂げた弟、大津皇子を偲ぶためだったのでは、という見方も当然出てきます。
「薬師寺縁起」にある「大伯皇女、神亀2(725)年勝福寺を建立」という記述が気になります。大伯皇女は701年に41歳で死んだ、とされています。死後24年経て建立とはどういうことでしょう?発掘調査から夏見廃寺では金堂、塔、講堂で異なる基準尺が使われており、数次にわたって塔堂が建設されたと考えられています。また約65m四方の掘立柱の塀跡と、方一町(約100m四方)の築地塀の痕跡が見つかっており、大伯皇女存命中に金堂と2〜3の建物がある質素な伽藍が作られ、725年に金堂の他大きな講堂と塔、そして僧達の暮らした僧坊などの建物群をもつ「昌福寺」の伽藍が落慶したとも考えることができます。
近鉄名張駅(東口1番のり場)より三重交通つつじヶ丘行(北回り、南回りいずれも可)バスで「夏見」下車徒歩約10分。バスは頻繁に運行しています。(平日・土曜日中10分間隔、休日日中10〜20分間隔)
http://www.city.nabari.mie.jp/ 名張市公式サイト
「ふるさと館」の「文化に触れる」に「夏見廃寺」があります。クリックすると、夏見廃寺の「公式サイト」に行けます。展示館内に復元された「金堂内部」の画像もあります。
http://www.e-net.or.jp/user/iga-7/ 伊賀地区広域市町村圏事務組合
「観光案内」から「市町村別」の「名張市」あるいは「種類で探す」の「歴史的建造物」で夏見廃寺展示館の情報が見られます。
バスの時刻はhttp://www.sanco.co.jp 三重交通でご確認ください。
「路線バス貸切バス」の項目に「時刻表」のリンクがあります。地図が開いたら中央左側の「名張」をクリックして停留所一覧から「な行」の「名張駅東口1番乗り場」を選べば時刻表が表示されます。
周辺の地図はhttp://www.mapion.co.jp/ マピオンから「住所一覧で探す」で「全国」>「三重県」>「名張市」>「夏見」>「2759」を順に検索するとご覧になれます。
※いずれもリンクは別窓で開きます。