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大伯皇女と大津皇子

大伯皇女と大津皇子

大伯皇女(文献により「大来」とも書きますが本稿では「大伯」を用います)は天武天皇の皇女で母は大田皇女(天智の娘、持統天皇の同母姉)です。661年、白村江の戦いのため天皇家一家が福岡に向かう途中、大伯の海(岡山県邑久と推定されています)で大田皇女が女子を産み大伯皇女と名付けたことが日本書紀に記されています。また弟の大津皇子は2年後天皇家が博多滞在中に生まれ、姉と同じく出生地に因んで名付けられたとされています。(「那の大津」は博多湾全体を指す地名のようです)

母の死、そして伊勢斎宮に

大伯皇女7才の時、母大田皇女が死去し、大津皇子とともに伯父にあたる天智天皇に引き取られたとされています。後述する大津の悲劇の伏線はこのときにまで遡るとも見られています。

壬申の乱後、大伯皇女は父天武天皇の命で伊勢に初代斎宮として遣わされます。斎宮は言ってみれば神様の「妻」、つまり「神への生きた捧げ物」のようなものです。表向きは壬申の乱勝利に感謝して遣わせたと言うことになっていますが、裏には皇室内の力関係に関わる事情があるという推測もあるようです。すなわち、天武の夫である鵜野讃良皇女(のちの持統女帝)が、自分の実子である草壁皇子の皇太子としての地位を安泰にするために大伯を「嫁に行けない身」にしたのでは、ということです。詳しくは歴史書や下にある参考サイトを参照ください。

大津皇子の悲劇

686年天武天皇が9月9日崩御、その年10月2日大津皇子が謀反の疑いをかけられて捕らわれ、翌3日に処刑されます。(濡衣という見方が有力?)享年24歳というあまりにも若い死です。妃・山辺皇女は「髪を乱し、はだしで走り出て」大津のあとを追い殉死した、と日本書紀に記録されています。有名な万葉歌の「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(3-416)は大津皇子の辞世とされています。この事件の記録は実質的に天武朝の「公式記録」である「日本書紀」に頼らざるを得ないため、真相については推測の域を出ません。万葉歌についても後世の作出とみる意見もあります。

父と弟を立て続けに失った大伯皇女は、身内の不幸が有った場合は斎宮の任を解かれる、という決まりによって11月に飛鳥に戻ります。斎宮の任を解かれた理由は表向き「父の死」となっているようですが、「弟が謀反により刑死したことによる罷免である」という見方もあるようです。(名張市教育委員会発行のパンフレット−有償配布版では罷免と断言しています。)

大伯皇女のその後

飛鳥に戻ってからの大伯皇女の消息については、大宝元(701)年に41歳で死んだ、ということ以外に記録が無く、詳にしません。しかしながら近年の発掘の成果から飛鳥で比較的恵まれた暮らしをしていたのではないか、と考えられているようです。(夏見廃寺展示館の展示パネルの記述より)

本稿参考サイト

大津・大伯関連

「世の中に昔語りのなかりせば」 http://homepage1.nifty.com/y_kashiwagi/ の中の
http://homepage1.nifty.com/y_kashiwagi/ohku/ooku.html

「水の都・飛鳥」 http://www.asukanet.gr.jp/miyako/  の中の
http://www.asukanet.gr.jp/miyako/004.html

万葉集関連

「楽しい万葉集」 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/


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